294: 法集別行録節要
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一巻

高麗普照国師智訥の主著の一つ。詳しくは、「法集別行録節要并入私記」。圭峰宗密の『中華伝心地禅門師資承襲図』の中より、北宗、洪州、牛頭、荷沢の四宗について、それぞれの宗旨およびその批評を叙べた部分を抽出し、一家の見をもってこれを改編し、さらに『禅源集』(実は『都序』)、永明延寿の『万善同帰集』および宋代諸師の語録等を引用し、全体に亘って、「私記」を加えたもの。著者智訥については、金君綏が撰した「昇平府曹渓山松広寺仏日普照国師碑銘并序」があって、その人となりを知る。高麗洞州(現在の 瑞興郡)の人、俗姓は鄭氏で、出家して牧牛子と号す。常の師なく二十五歳のとき昇平清源寺の学寮で『六祖壇経』を読んで自得し、同学十余人とともに定慧社を結んで習定均慧を務め、のち四十一歳のとき、一日、李長者の『華厳合論』と『大慧語録』とによって大悟す。この間の事情は彼自身の「勧修定慧結社文」(『禅門撮要』下)に詳しい。のち、詔によって松広山吉祥寺に入り、山名を改めて曹渓山といい、定慧社を修禅社と改称し、爾来十一年の間、孜々として後進の教導につとめ、仏日普照国師 と謚せられる。著すところ、本書以外に『修心訣』『看話決疑論』『円頓成仏論』『真心直説』『念仏要門』『誡初心学人文』などがあり、現存して広く一般禅徒の間に知られている。智訥の説は華厳と禅とに拠り、澄観と宗密を宗とし、定慧兼修、頓悟漸修を主張し、教より禅への道を意図したが、一面大慧一派の看話禅を強調して知解を退け、疑団の解決をもって先とするところがある。すなわち、本書の巻首に「荷沢神会は是れ知解の宗師、未だ曹渓の嫡子と為さずと雖も、然も悟解高明決択了然たり。密師其の旨を宗承するが故に· A此の録中に於て伸て之を明すこと、豁然として見るべし。今、教に因って心を悟らんとする者の為に、繁詞を除去し綢要を鈔出して、以て観行の亀鑑と為す」と言い、この書を作る趣意を叙べてその気概を示す。特に、宗密が荷沢宗をもって達摩禅の正系とし、他宗を貶する傾きあるを改めて、看話によって自心を悟り邪正を決択すべきであるとなしている点に、智訥禅の立場が伺われる。もともと智訥が用いた『中華伝心地禅門師資承襲図』は、宗密が裴休のために、唐中期までの達磨の禅の伝統および分派の次第と、各派の法説の得失深浅等について説いたもので· A初めに師資の系譜を図示しているところから今日は『承襲図』と名づけられるが、元来は一種の書状であり、ときに「宗趣状」または「牋要」と呼ばれ、あるいは「圭峰後集」ともいわれて、『禅源諸詮集』の付録的なものと見られていたらしい。智訥がこれを『法集別行集』と称するのは、その中から、法集の部分のみを抽出したゆえである。なお、この書の成ったのは、後書によると大安元年己巳(一二〇九)の夏で、智訥五十二歳に当たるが、三十三歳のときに草した「勧修定慧結社文」にすでに本書の引用があり、しかもその引文の個所について、本書中は、· u巳に社文に載せたれば此に録せず」と注しているから、実際には両書の中間前後二十年を通して、相互に種々の改訂が加えられたものと見るべく、智訥生涯の心要の書であったことがわかる。またこの書は、彼の下に曹溪宗が起って師資相伝講究せられたために数次の開版を見、今日もまた禅門の重要学習書の一つされているようで、本書を注釈したものに、清代の晦庵定慧(一六八五-一七四一)の『法集別行録画足』が行われる。